いとうせいこう氏評「弱い命を救う 医は今も仁術」(「朝日新聞」2019.5.18)
国境の医療者
- 四六判
- 360頁
- 1900円+税
- ISBN 978-4-7877-1902-7
- 2019.04.20発行
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書評・紹介
紹介文
◎いとうせいこう氏評「弱い命を救う 医は今も仁術」(「朝日新聞」2019.5.18)
《互いの尊敬が力となって作動するありさまには、読んでいて強く心が動かされる。》
《日本国内でそれを「偽善」のように扱うことがあるのは、世界側から見ると不毛な錯誤に過ぎない。彼らなしでは実際に多くの弱い命が消えてしまうのだ。》
タイ・ミャンマー国境の町で30年にわたり、難民・移民に無償診療を続けている「メータオ・クリニック」。
国際ボランティアとして、体当たりで赴任した日本の医療従事者たちが、現地スタッフや患者とともに戸惑い、傷つき、成長し、交流と支援を続けた10年間を綴った珠玉のリレーエッセイ。
◎渋谷敦志氏(本書収録「いのちを支えるつながりを見つめて」より)
〈医療がそこにある。医療者がそこにいる。ただそれだけの事実が、わらにもすがる思いでやってくる患者たちをどれだけ勇気づけていることだろう。「メータオ・クリニック支援の会(JAM)」の活動は、国境という困難を生きる民、文字通りの「難民」たちの生を肯定するエールになっていたし、参加するメンバー一人ひとりが思いやりと行動力を兼ねそなえた愛すべきヒューマニストだと思う。ただ、裏方から支えることに徹するJAMにはそのことを鼻にかけてアピールする人はいないので、代わりにぼくがメンバーへの敬意も込めて、この場で読者に伝えておきたい。〉
◎本文より
〈途上国を旅した人が、たとえ貧しくても子どもたちの元気で無邪気な笑顔に心を打たれた、と言うのをよく聞く。子どもたちはとにかくエネルギーを補給して使うのが宿命なんだろう。
しかし、だから良かった、ではない。無邪気な笑顔は簡単に失われる。笑顔を向けられたということは、その笑顔を守る責任を託されたのだと思った。子どもたちが元気なら元気なほど、それを守る大人の責任は重い。〉
〈唯一の治療の場と思い、必死になって友人を連れてきた男性の気持ち——。彼の涙に応えられないこと、傷ついた人を助けられないこと、どうすることもできないこと。
無力感とやるせなさに押しつぶされそうな時間。何十年も患者を診てきたスタッフたちは、何度もこの時間を乗り越えてきたんだと思う。
私に「できること」はいったい何なのだろうか——。〉
〈それぞれの人がそれぞれの事情を抱えながら、国境を越えクリニックにやって来る。帰る場所がある人もない人も、ここで治療し、働き、ほかの患者を助け、まるでここが自分の家のように生活している。〉
◎リレーエッセイ執筆者
・田邉 文(Aya Tanabe)
一九七八年生まれ。医師。第二代派遣員(任期二〇〇九年六月〜二〇一〇年八月)。
メータオ・クリニックが難民自身の手で難民を助ける自助組織であることに共感し、派遣員に。活動の中心は難民なので、脇役に徹しながらも助けになるにはどうすればよいかを常に考えた。任期中の最も印象的な「やってしまった」出来事は、送別会で外科病棟スタッフがさばいてくれた子ブタが生焼け(というかほぼナマ)なのに食べてしまい、七転八倒の腹痛のなか現地を後にしたこと。任期終了後は日本の医療機関に勤務し、現在は在外公館の医務官としてコートジボアールに在住。
・前川由佳(Yuka Maekawa)
一九八一年生まれ。看護師、保健師。第三代派遣員(任期二〇一一年八月〜二〇一三年九月)。
派遣員になった動機は、海外の医療現場で働きたくて看護師になり、JAM日本事務局として関わっていくうちにこの現場をもっと知りたいと思ったこと。任期中、最も印象に残ったのは、食事中に顔を合わせると、どんな少ないおかずでも「食べていきな!」と分けてくれること。任期終了後、チェンマイにあるミャンマー少数民族を支援する財団に勤務したのち、現在は琉球大学大学院博士課程に在籍し、移民研究を行っている。
・田畑彩生(Aya Tabata)
一九八三年生まれ、看護師、保健師。第四代派遣員(任期二〇一二年七月〜二〇一四年九月)。
大学生の夏にメータオ・クリニックを訪問し、オープンでポジティブな現地スタッフの様子と多文化・多言語な環境に衝撃を受け、保健医療ボランティアを決意。任期中、最も印象に残った出来事は、看護師のいない病棟で、家族のいない患者の排泄ケアを隣の患者家族が始めたこと。任期終了後、国境地域でデング熱地域予防啓発活動を継続した後、北海道の医療機関に勤め、タイの大学で公衆衛生修士号を取得。現在、製薬会社CSR推進事務局にてASEANの感染症予防対策に従事。
・鈴木みどり(Midori Suzuki)
一九七二年生まれ。看護師。第五代派遣員(任期二〇一四年八月〜二〇一五年九月)。
派遣員になったきっかけは、タイ留学中にメソットを訪れて現地の素朴な雰囲気が好きになったところに、派遣員にならないかと誘われたから。任期中、最も印象に残ったことは、現地の道路の移動手段。バイクタクシーも風を切って気持ち良かったが、とくにソンテウ(トラックの荷台を改装したバス)は安いし、移動中に外の風景が目の前いっぱいに広がるなかで現地スタッフと話す時間は楽しかった。任期終了後は日本の医療機関に勤務している。
・神谷友子(Tomoko Kamiya)
一九七八年生まれ。看護師、保健師。第六代派遣員(任期二〇一五年八月〜二〇一七年九月)。
子どもの頃から途上国の人の力になりたいと思い、看護師に。看護師二年目の夏にメータオ・クリニックを訪れ、現地の人たちに対して一所懸命に手を差し伸べ、誠実に対応している先輩の姿を見て、自分も派遣員になりたいと思うようになる。任期中、最も印象に残ったのは、お金がなく社会的なサービスが整っていないなかでも、地域のみんなで支え合って幸せそうに生活していたこと。任期終了後は日本の障がい児施設に勤務している。
・齊藤つばさ(Tsubasa Saito)
一九九二年生まれ。看護師、保健師。第七代派遣員(任期二〇一七年八月〜二〇一八年九月)。
小学生のときに『世界がもし100人の村だったら』という本を読み、自分と世界の人たちの現実との違い(格差)に驚き、将来は看護師として国際協力に関わりたいと決意。看護学生のときに現地を訪れ、当時の派遣員がとても楽しそうに働いていて、自分もこんなふうに働いてみたいと思った。任期中、最も印象に残ったのは、ビルマ語、カレン語には「つ」という発音がないため、みんなに「ちゅばさ」「すばさ」と呼ばれたこと。任期終了後は日本の医療機関に勤務している。
・梶 藍子(Aiko Kaji)
一九八二年生まれ。看護師。初代派遣員(任期二〇〇七年七月〜二〇〇九年五月)。
十代の頃から難民問題に関心があり、メータオ・クリニックの国際医療ボランティア募集枠に応募。
任期中、最も印象に残った出来事は、内科病棟で幼い子ども三人が涙を流しながら、エイズ末期の母親を看病している姿を見たこと。任期終了後、長崎大学で熱帯医学を、米国の大学院で公衆衛生学を学ぶ。タイ・ミャンマー国境に戻り、国際NGOでも勤務。現在は国連職員として移住と健康問題の仕事に従事している。
目次
[I] 国境の難民診療所 〜体当たりの医療支援〜
「メータオ村」で過ごした日々(2009.6-2010.8)
田邉 文(第二代派遣員/医師)
[II] 国境の医療者たち 〜なんでも屋、ときどき看護師〜
国境の医療者たちの強さと優しさ(2011.8-2013.9)
前川由佳(第三代派遣員/看護師・保健師)
きっとたくさんある「私にできること」(2012.7-2014.9)
田畑彩生(第四代派遣員/看護師・保健師)
[III] 国境の変化のなかで 〜できることを一歩ずつ〜
いまできることを明日からもひとつずつ(2014.8-2015.9)
鈴木みどり(第五代派遣員/看護師)
すぐに変わらなくても自分にできることを(2015.8-2017.9)
神谷友子(第六代派遣員/看護師・保健師)
看護スタッフたちの成長を見守って(2017.8-2018.9)
齊藤つばさ(第七代派遣員/看護師・保健師)
[IV] 国境を見つめ続けて
国境の未来を見つめて(2007.7-2009.5)
梶 藍子(初代派遣員/看護師)
日本のみなさんへ
シンシア・マウン(メータオ・クリニック院長/医師)
一〇年にわたる活動を振り返って
小林 潤(メータオ・クリニック支援の会代表/医師)
いのちを支えるつながりを見つめて
渋谷敦志(写真家、フォトジャーナリスト)
メータオ・クリニック支援の会(JAM)とともに歩んで
——寄せ書き JAM設立一〇周年と本書出版に寄せて
あとがきにかえて
渡邊稔之(メータオ・クリニック支援の会 書籍担当/医師)